1949年(昭和24年)愛媛県面河村生まれ。
東京空襲で被災した両親から、
戦争の悲惨さと平和の尊さを聞いて育つ。
中学2年生の時、上京。
区立松江四中、都立江戸川高校を卒業。
青年時代、兄が経営するゴム金型の工場で経理の仕事に携わる。
その間、日本民主青年同盟に加盟。
日本民主青年同盟江戸川地区副委員長・東京都委員を務める。
20歳の時、戦争に反対した唯一の党が日本共産党と知って入党。
28歳の時、新日本婦人の会江戸川支部の事務局長に就任。
以後、9年間新日本婦人の会の専従として活動。
(この間、新日本婦人の会都本部常任委員も兼務)。
1987年、37歳のときに江戸川区議会議員に初当選。(以後、四期連続当選)。
介護保険・健康特別委員会副委員長、党区議団副幹事長などを歴任。
日本共産党では、江戸川地区委員、江戸川地区常任委員を務める。
この間、9年間にわたって実母の介護をおこなう。
2001年、東京都議会議員選挙に初当選。
西田ミヨ子前都議が4期16年守ってきた、江戸川区の日本共産党の議席を引き継ぐ。
家族は、夫。趣味は、山登り、詩吟。

河野ゆりえの自己紹介−いくつかの質問に答えて

 

<私の故郷>  愛媛県上浮穴郡面河(おもご)村 相ノ木

「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれた「面河渓」が、子どもの頃の遊び場でした。名峰「石鎚山」の麓の村です。数年前、新婦人江戸川支部のハイキング小組の人達を案内した時、「あなたに連れられて色々な山に登ったけど、こんなに山深いところは初めて」と驚かれました。「山紫水明の里」と誇ることができる美しい村です。昨年8月、町村合併で面河村はなくなり、久万高原町になりました。

 


<家業と幼い頃の思い出>

 姉が3人、兄が2人います。私は末っ子で、貧しい家庭ではありましたが、父母や姉兄達に守られて育ちました。

小学校の建物は木造平屋一階建て、1学年1教室の計6教室と図書室を兼ねた音楽室、そして職員室が1列に並んでいる小さな学校でした。標高は1000メートルに近く、降雪が多いことから、廊下を広くとり冬の遊び場としても使えるように設計されていました。皆で1列に並んで、雑巾がけをしましたから、廊下はいつもピカピカに光っていました。この廊下で、お手玉やオハジキに興じていました。私が3年生の頃、ピアノが入り「お山の学校にピアノ」という記事が新聞の載ったことをおぼえています。「僻地の子どもたち」というラジオ番組に出たこともあります。山坂道の通学路は徒歩で約30分、夏は蛇に出会い、冬は雪に滑って転んだりと、冒険遊びそのものの毎日でした。水泳は学校のはるか下を流れる面河川で覚えました。面河川は、太平洋に流れこんでいる仁淀川の源流です。水は冷たく透明で、今も清流は保たれています。この小学校は、過疎化によって、ずっと以前に廃校になり、現在は「少年少女自然の家」とかいう名称で、宿泊施設になっています。

 


<中学校時代のこと>       

中学校は自転車で1時間、バスでも30分位かかりました。バスは、朝6時半頃の始発の次便は10時半頃でしたから、どうしても5時半頃に起きて始発バスに乗る以外にありません。男子は何人も自転車通学をしていましたが、女子はみんなバス通学でした。私は、男子のように自転車通学をしてみたかったので、夏の季節だけ、父の自転車を借りて学校に通いました。舗装されていないデコボコのバス道は上り下りの連続で、時々、木陰で休んだりしながら、元気に通学しました。寄宿舎の生活も経験しました。トイレの汚物処理、いわゆる「肥汲み」は当番で寄宿生の仕事でした。私の家は農家ではなく、そのうえ女の子ですから肥桶を担いだことがなかったので、運搬途中に汚物が身にふりかかってきた時は、本当にびっくりしました。

 この頃、文部省の方針で、全国的に「学力テスト」が実施され、愛媛県と香川県は全国一を競う成績をあげていました。私たちも毎日、授業のほかに「学テ」対策の特訓がありました。「このテストの成績は、将来、君たちに大きな影響がある」と、先生方も一生懸命でした。「学テ反対」の全国的な運動があったことを知ったのは、ずっと後のことでした。

 中学時代は、楽しく過ごしました。「身長が伸びるかもしれない」と期待して入部したバスケット部、郡内の英語の弁論大会への参加、学校史上初めての生徒会役員選挙への立候補などなど、懐かしい思い出が次々とよみがえってきます。中学3年の時には東京オリンピックが開かれ、村が中学校に購入したカラーテレビの前で、連日、応援の声をはりあげていました。

 高校受験を目前にした12月、すでに東京で生活していた姉兄達が父母と相談して、私も東京に出ることになりました。友人達との別れが悲しく、放課後の教室で、最後の日まで涙を流していました。男子が「お前たち、毎日泣いているじゃないか」とからかったほどでした。多感な年頃だったせいもあるでしょうが、それだけでなく、大切な友人たちとの別れが本当につらかったのです。母に連れられて故郷を発った日、初雪が降ったことをおぼえています。

 


<東京の生活>       

村を出発した後、松山市の叔父の家に泊まり、次の日、国鉄で東京に向かいました。新幹線は開業したばかりで、母の選択肢には入っておらず、予讃線、宇高連絡線、そして東海道線と乗り継ぎ、夜汽車のなかで一晩を過ごして、翌朝6時過ぎに東京駅に着きました。眠かったことだけが記憶に残っています。姉たちが住んでいた江戸川区松江の借間が私の新しい生活の場で、兄が、転校手続きなど全部済ませてくれていました。何もわからない私は、兄たちの言う通りに松江四中に転校し、都立江戸川高校を受験することになりました。転校当時は松江四中のスパルタ教育に驚きましたが、級友のSさんが近くに住んでいて、とても親切にしてくださり、すぐにクラスのみんなに馴染むことができました。Sさんに出会えたことは幸せでした。Sさんは、現在、松江で美容院を営んでいます。

 


<高校時代以後>       

江戸川高校で一番の思い出は山岳部に入ったことです。狭くて汚い部室でしたが、山男、山女のロマンでいっぱいでした。顧問の先生が素適だったので、ひそかに憧れたりしていました。高校山岳部での経験が役にたって、後に全国で初めての「新婦人ハイキング小組」を結成し、この20数年で、北海道から九州まで全国各地の山に登ることができました。高山植物に興味を抱いたのは顧問になってくださった女性の先生の影響です。身体が小さく体力に恵まれているとは言えない私ですが、山歩きを続けてこられたのは、江戸高山岳部で基礎を学んだおかげです。勉強は、あまり熱心でなかった高校時代でした。

       


<仕事のことなど>

 高校を卒業した後は大学進学を、と考えていましたが、受験勉強に熱心になれないままでした。姉が予備校に行くように、とお金を貸してくれました。言いつけに従い、御茶ノ水の予備校に通いました。そこで、民主青年同盟の人と知り合いました。長野県出身の歌が上手な人で、亀戸にあった歌声喫茶「ともしび」にしばしばつれて行ってくれました。すすめられて民青新聞を購読しました。なぜか、ひどいインクの匂いがする新聞でしたが、毎週郵送されてくる新聞を読んでいるうちに、「私が求めていたものはこれだった」と、感じるようになりました。民主青年同盟への加盟呼びかけを受け、平井にあった民青同盟の班に入れてもらったのが1970年の秋でした。平井の民青同盟のリーダーは、小俣のり子さん(現区議)でした。ちょうど同じ時期、次兄が有限会社を設立し、私は経理事務員として手伝いをすることになりました。結局、大学には進学しませんでした。

 


<党員になってから>

 兄の会社はゴム金型製造業でした。仕事は帳簿の整理、銀行通い、金型図面の製図などで、運転免許をとった後は、お得意先への金型の搬入なども担当しました。会社には民青同盟の人からの電話が頻繁にかかってきて、兄が「私用電話はごめん」などといじわるな張り紙をしたこともありました。1971年の秋、現在の区議団長の瀬端勇さんから日本共産党への入党を薦められました。しばらくの間、断っていましたが、熱心な説得に根負けして入党を決意しました。家族にはしばらく黙っていました。やがて、母が気づき、「やめなさい」と言いました。私が、「お母さんたちが苦しめられた戦争に反対した党が日本共産党。また、あんな時代が来ないように私は平和を守りたい」と考えを伝えたら、それ以後は何も言いませんでした。むしろ、「赤旗」を熱心に読んでくれるようになりました。母は、私が幼い頃、いつも松山市で受けた米軍の空襲体験を話していたのです。   

1975年の3月、兄の会社を退社して、党江戸川地区委員会の勤務員になりました。財政部員、赤旗分局員として働きました。「しんぶん赤旗」の拡大月間や選挙、配達集金にかかわる実務と仕事はいつも多忙を極めるものでした。夫も同じく地区委員会で働いていました。

 1977年、日本共産党の専従職員を辞めて、新婦人江戸川支部の事務局長に仕事をかわりました。28歳の若い事務局長を、年上の会員さんたちは、妹や娘のように接してくださり、「ご飯は食べたの」とか、「うちの娘が着たものだけど、これ良かったら着てちょうだい」と、親切に面倒をみてくれました。核兵器廃絶をめざす署名「ヒロシマ・ナガサキアピール」を広範な人々によびかけようと江戸川の新婦人の人たちが考え出した「ピースフラワー」は、あっという間に全国に広がりました。ハンカチやバンダナのデザインにも使われ、平和運動のシンボルになったことは、忘れられない思い出のひとつです。約9年、新婦人の専従事務局長を務めました。

 


<区議候補への決意>

 1986年1月に新婦人事務局長を退きました。次の仕事をいくつか考えていたところ、頼まれて2月に町田の市議選の応援に泊まり込みで行きました。町田で活動していたら、突然、当時の党地区委員長だった林幸二さんが、「激励」と称してたずねてきました。そして、「来春の区議選の候補者になってほしい」と言うのです。「青天の霹靂」という言葉がありますが、本当にそうでした。入党の時と同じように何回も断りましたが、約2ヵ月後に「引き受けてみよう」と、自分なりに結論を出し、皆さんの支援を受けました。

 翌1987年の区議選で、日本共産党は6人全員当選を果たし、初めて区議会で予算をともなう議案提案権を持つことができました。新人候補の私は、支部・後援会の皆さんに励まされながら必死の活動でした。演説は西田ミヨ子前都議や安部まこと元区議をはじめ先輩議員から援助を受けました。その頃の演説テープを聞くと涙が出ます。「こんなに下手な演説の候補者を、みなさんがよく当選させてくださった」と、感動してしまうのです。

 


<区議生活、1>

 初めての本会議質問は、87年の第三回定例会でした。交通安全対策を求めました。事故が多発していた春江町3丁目の交差点で、小学生の女の子が車に轢かれて亡くなりました。交差点の入り口の道が狭まっていて、見通しがきかないことから起きた事故でした。道路を拡幅するよう要求しました。中里喜一元区長は、「拡幅します」と答弁し、その後、地主さんとの合意が整って交差点が改良され地域の人からとても喜ばれました。町会長だった自民党区議の方が「河野さん、私をあまりいじめないで」と、言ったことが思いだされます。この質問は、党支部の人たちが交差点で朝晩の交通量調査を行うなど、皆で作り上げたものでした。1期目の時は、何もかもが初めてのことばかりで、不安だらけでしたが、先輩議員の皆さんや、一緒に初当選した堀達雄さん(現在は河野事務所長)に教えてもらいながら、日々を過ごしました。初めての文教委員会、初めての予算特別委員会などなど、語り尽くせない数々の出来事がありました。いつか、機会がありましたら、1年生議員の奮戦ぶりをお話しさせてください。

 


<区議生活、2>

 区議は4期14年つとめました。このうち9年間は、母の介護と一緒に時が過ぎました。臨時議会が紛糾し、夜中になっても帰れなかった時、母の面倒を見にきていた姉が、「終電車がなくなる」と私の帰宅を促がす電話を控え室にかけてきて、途方にくれたこともありました。区議団の理解とご近所の方々の協力があったから、仕事が続けられたとつくづく思います。

 私が母を姉兄達とともに介護していた時は、介護保険はありませんでした。入浴サービスなどが無料で受けられ、助かりました。母の状態が悪くなった数年間は熟年者激励手当も受けることができました。高齢者の介護費用は予想以上にかさみます。月額53000円の熟年者激励手当は本当に助かりました。この大事な手当を、石原都政が冷たく廃止強行したことは、所得の少ないご家庭の介護の負担をいっそう重くしています。江戸川区は、23区で唯一、以前の約半額の2万5千円を区独自に支給していますが、この制度はなんとしても守り、都政でも復活を実現させたいものです。

 1999年4月の区議選の後、介護保険事業計画検討委員会の委員を約1年務めました。区議会の介護健康特別委員会の副委員長だったことで委員をうけたまわりました。各分野の方々の意見をお聞きし、特に江戸川区社会保障推進協議会の皆さんとは、何回も懇談を重ね、検討委員会に臨みました。この時期は、よく勉強した、と今でも思います。所得の少ない人たちの利用料助成制度の実施など、皆さんから寄せられた要望のいくつかを反映させることができました。要求にもとづく世論を広げていくことの大切さがよくわかりました。区画整理などの街づくりや環境問題、総合病院誘致、区の直貸し融資実現、保育問題でも同じように、「住民の声が行政を動かす」ということを実感しました。

 


<趣味>

 幼い頃は、編物や刺繍など手芸が好きでした。生来、不器用ではありますが、手袋やセーターを編んでプレゼントしたりするのが楽しみでした。区議の仕事についてからは糸や針を持つことが少なくなり、今ではまったく手芸とは縁のない生活となりました。でも、高校時代に始めた山登りは、なるべく時間をみつけて続けて来ました。夏は必ず3000メートル以上の山に登ろう、と決めて仲間を探しました。夫も初めのうちはつきあってくれていましたが、いつの時か「山は卒業」と宣言して登らなくなってしまいました。

 1982年に、新婦人の山好きの人達と「ヤッホークラブ」というハイキング小組をつくりました。今ほど中高年の山歩きが活発でない時代で、ヤッホークラブはブームのさきがけでした。とはいえ、「山の装備のままで明るい時間に帰るのは近所の人の目が気になる」という人が多数いましたから、途中下車し新宿駅などで食事を済ませてから帰宅したりしたものでした。

 山から下りて、温泉に入ることも趣味の一つです。最近は、山に行く機会が減っていますから、身近なところで温泉を楽しんでいます。「東京の温泉」という本に紹介されている船堀の「A」銭湯は、江戸時代からの銭湯で、100%温泉とのことです。家から車で約5分の距離ですから、夜11時過ぎにお風呂道具を持って、出かけて行きます。家のお風呂に比べて、身体の芯から暖まり、のびのびと入浴できます。同じ船堀にある銭湯、「O湯」も人気です。銭湯は夜12時までの営業なので、閉店時間に間に合いそうもないと、東葛西のスーパー銭湯に行く場合もあります。こちらは午前2時まで営業で若い人がたくさん来ています。近くの銭湯で「温泉効果」を試しているこの頃です。

 詩吟は習い始めてから10年近くになります。素晴らしい師に恵まれたこととが長続きした一番の要因です。古今東西の名詩が勉強できて、思いきり大きな声で発声しますから、心にゆとりが湧いてきます。更年期障害をのりこえられたのは、詩吟のおかげかもしれません。李白や良寛の詩が好きです。

 


<好きな俳優>

女優は、宮沢りえさん。「北の国から」で、吉岡秀隆さんの恋人を演じていました。お父さん役の田中邦衛さんと山の露天風呂に入ったシーンを見て、すっかりファンになりました。「たそがれ清兵衛」が話題になりましたが、あの映画を見た時、「得をした」と心ひそかに思ったものです。昨年夏に岩波ホールで上映された「父と暮らせば」も印象に残る作品でした。中国映画「華の愛、遊園驚夢」での没落していく大金持ちの愛人役は美しく儚く、宮沢りえさんならではの演技でした。

男性は、野村萬斎さん。姿も声も凛としています。しばらく前までは、前進座の嵐圭史さんが好きでした。男性俳優については結構移り気で、もちろんヨン様も大好きです。

     

 

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